「真に偉い人とは」  03−08−10
              ルカ9:46〜48

 「誰が一番偉いのか」と弟子たちが議論をしていました。その時、12人の
弟子たちが、それぞれ自分が一番だと言い争っていたとは思えません。
それぞれ、自分たちの情けなさを痛感したばかりだからです。12人のうちの9人は、
自分たちの無力さを味わったばかりです。主が山に登っておられた時に、悪霊に
取り付かれた息子を助けて欲しいと頼まれても、どうする事もできなかったからです。
主と共に山に登り、主が天の栄光に輝いておられるのを目撃した3人も、その際に
的外れな対応しかできなかった自分たちを情けなく思っていたはずです。自分の
偉さを主張していると言うよりも、自信と自信のなさが入り混じった中で、自分の存在の
価値や大きさを一生懸命気にしているのが弟子たちでした。そして、そんな姿は、
私たちの中にも絶えず出てくることでしょう。
 弟子たちの心を見抜いた主は、一人の子供の手を取り、ご自分の側に立たせ
ました。子供のように純粋で清いものになりなさい、と言うことではありません。
子供は、偉く、重要な存在とは考えられてはいませんでした。しかも、その子供は、
素直に近寄ってきたおとなしい子供ではなく、主に手を捕まえられて、そこに立たされ
ている子供です。しかし、たとえ子供であっても、その子供は、弟子たちが喜んで
受け入れるに値する存在とされているのです。主に手を取られ、主の側に立たせて
いただいている者だからです。主の側に立たせていただいていることが、人にとって
揺るがない永遠の価値であり、存在の大きさであり、また「偉さ」でもあるからです。
 それが、弟子たちの心を向けるべき「偉さ」です。この「偉さ」を弟子たちも、
私たちも、すでに主から与えられています。主の側に立つものとしていただいて
いるからです。ですから、どんなに自信を失っても、主によって、偉く大きな存在と
していただいていることに励まされ、そんな「偉さ」を与えられている自分自身を
喜んで受け入れて、進んでいけるのです。